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四年目の祥月命日 [母の弔い]

4年前の2007年、8月2日。
母は、右心室細動で、あの世に逝きました。

その日の午後6時55分。
送っていったお寺の入り口で、バイバイする母を横目に帰宅した瞬間までの私は、幸せだった。

と、三回忌のエントリーに、私は記しています。

それからのことは、今日は、いまさら触れないことにしますが。
そして、そこから、私の悪夢と地獄が始まってしまったのは、既知のコトなのですが。

それでも、昨日のエントリーでも触れたように。
今の私は、シアワセ、です。

ただ、そのシアワセの質が、母が逝く前の頃の、脳天気なシアワセと同義かというと。
それは、むろん、否、なのですが。

シアワセの形は、その時々で異なっていて然るべきであり。
だからこそ、絶望という地獄から這い上がってきた私が、こうしてまた、シアワセに再びなれるんだろうと。
逆に、そう、思うわけなのです。

今年は、御花も来ませんでしたし。
世間的には、確実に母も過去の人になっていっているようです。

でも、それは、むしろ自然なことなのだと思います。

私は、朝、母に4回目の命日の挨拶もしたので、それでいいし。
母も、今のこの全ての状況を、心から喜んでくれていると、そう、感じますから。

私達は、三次元に生きているので。
真に認識しうるのは、「今」、この一点でしかありません。
「過去」ですら、それは、流れ去っていく記憶の中で、沈殿と固定を繰り返し。
やがて、自分のフィルターを通してのみ想いをはせる、マイルストーンと成っていくことは。
みんな、わかっていることなのです。

しかし、自分にとって特別な「過去」を、そう、思えるようになるには。
予想もつかない遠大な時間が、かかることも、これは事実でありました。

そして、私は、ここにきて。
やっと、「あの過去」を「単なる過去」として、認識しうるだけの精神的な回復を遂げつつあるのだと。
そう、感じますが。

でも、私にとってこの生涯で二度ないであろう、重い「あの過去」をまともに見据えた時。
そこから、もう1歩進まなければ、完結しない「あること」が、まだ……だ、と。

実は、そのことは、私には、あの瞬間から、わかっていたことでもあるのですが……。

……まだ、その点に関しては、なかなか、まともに考えたくない意識を否定できません。

来年の祥月命日までに、考えられるようになるのか……。
それとも、七回忌まで、おあずけになるのか……。

それは、私にも、わかりません。

まぁ、無理をしても、結局、二度手間になるだけですから。
自分の進歩に合わせて、自分なりに進んでいこうと、思っております。

あれから、4年……。
いまでも、母は、時々夢に出てきます。
先日、お出かけした献茶の前には、頻繁に出てきていたんですが。
コトが済んで、安心したのか、命日でも、母も夢に来ませんでした。

あの世の人ですら、4年もたつと、そんなモノなのかもしれません。

7日の出張の帰りには、お土産買ってくるからね~。

そう、話しかけると。
「うん!」という。
母の声がした気がするのは、これは、かわりなく。
たぶん、私は、こうして、生きていくのでしょう。
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